昭和45年7月24日 朝の御理解 (末永信太郎) №45-093
御理解第六十一節
神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。
金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ。金光大神が残しておって下さるお話、いわゆる御教えというものは、または、ご自身がご神意を体して、いわゆる人間、まあ、教祖ということを申しますが、本当のいわば人間らしさというか、人間らしく実意丁寧神信心を持って生き抜かれた。
そういう生きられた生きられ方、教祖のその生きられ方そのものが、金光教の生きた教典であるという訳で、御教えだと言われます。そういう、まあ、実意丁寧な生き方、実意丁寧な神信心をさせて頂くということの中には、出来たり出来なかったりといったようなことがない。ね。
いつも、その、相変わらず出けておられる。そういうことが、私は、教えの中にいっぱい満ち溢れておると思う、そういう生き方が。ね。実意丁寧。自分自身が真の道を踏んで行かれておる。その生きられ方が、そのまま教えなんです。ですから、金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて行くのが、神へのお礼ぞと言っておられるが、神様へのお礼といったようなものではなくても、それを、そう伝えられなければおられない。人情というか、親切というものが、いつも教祖の周辺にはあるわけです。
この人に、おかげを頂いた話をしたら、神様が喜んで下さるだろうから、というのではなくて。ご自身が助かられたことが、ね、言うなら、もう、それはそう伝えなければおられない。これは私が、これは私の実感なんですけれども、本当に信心を頂いて、段々こうおかげを頂いてまいりまして、信心、まあ、生活が段々出けるようになりましたが、信心生活の有り難さということ、尊さというものを、信心のない人に何とかして伝えて行けれる手立てはないものだろうか、と。
これは、もう本当に切実に思いますね。皆さん、どうでしょうか。そういう風な思いをなさることはないでしょうか。本当にこういう有り難い神様、こういう有り難い御教えをです、例えば家庭の不和の人がある。または、いつも病気がちな人がある。いつも、お金に苦しんでおる人がある。いわゆる、様々な難儀に喘いでおる人達がたくさんあるにつけて思いますことはです、その人達に、何とかこの素直に聞かせれる。ね、スムーズにです、私が助かって行っておるという、その、おかげを頂いておるという信心を、神様を何とか伝えさせて頂きたい、と。ね。
私はそれをいつも、もし本当に、三味線太鼓ではやして回って、宣伝して回ったら皆が付いて来るなら、もうそうでもしたいというような気持ちが、いつも心の底にあります。これは、なら、自分自身がおかげを受けて行っておるからですね、教えによってです。教えによって、このように自分の心が生き生きとして、有り難くなれれる。いや、有り難くない時でも、教えによって、その心が生きてくる。その生きた心には、いつも勿体無いほどしのおかげが伴うておる。
しかも、この有り難い勿体無いが、あの世にまでも続くと言うのであるから、この世には、まあ、五十年か六十年に致しましても、どうせ、あの世では長いことであろうが、その長い間を幸せにする基というのが、信心にあるのだと、例えば信じれ、分からせて頂いたらね、何とかして伝えたい、何とかして信心をしてもらいたいという気が致します。
皆さんは、そういう気持ちになられることはないでしょうか。ほああ、私がまずはおかげ頂かにゃ。私がおかげを頂かなと、自分のおかげを頂くということだけ。やっぱ、そのおかげには切りがない。ね。そこで、私が今日、この六十一節を特に頂きますね。もう、お話の仕様がないほどに頂きますような感じです、いつも私がここを頂く時に。ね。
けれども、やはりここんところがですね、神様の願いである。ね。その、それは、私どもにかけられる願いである。ね。神様が私どもに、もう、説に思うて下さる願いである。こういう有り難い信心を人にどんどん話して、導いてくれというような風に、ちょっと、言葉にはありますけども、そういうものではない。ね。お前自身が、いつまでも尽きぬおかげをと、こう仰っておられる、いつまでも尽きぬおかげを頂けれる信心を頂いてくれよ、と。
それが本当に頂けたら、ね、今私が申します、本当にどうかして、手立てを考えてでも、それを信心のない人達に伝えたいという心が起きてくる。起きてくるから、止むに止まれんそういう働きになって来るから、ね、真の道を踏んで行くことになるのであり、真の信心をさせるということになるのであり、それが神様へのお礼というようなことになるのであるから、私は尽きぬ限りのない、またはおかげに、また、いよいよ頂き合うことが出来る。そういうおかげを頂いて行くことが出ける、ということ。ね。
ですから、ここんところを、まあ、申しますとです、いわゆる、その、神様の願いに応えて立つということになるんじゃないでしょうか。神様の願い、神様が人間氏子の一人ひとりにかけて下さるその願い。ね。その願いに応えて立とうという、止むにやまれん心というものが育って来ること。それが、もう、絶対のおかげを頂けれる大元になる。ね。
神様の願いに応えて立とうという心。昨夜、お月次祭が終わりました後で、5~6人、私の控えによって、お話をさせて頂きます中に、ここに、まあ、普通で言うなら、ここは石庭でございますね、石ばかりの庭であります。これを私が、商売をなさる方ではなくて、素人さんですけど、なかなか、庭つくりが好きだという方が、特別、信心のない方ですけども、久富正義さんの奥さんの兄弟になる方です。
どうでも、自分がしてあげたいと言うので、その来て下さってから、して下さった時に、私がどういう風に、まあ、(配石?)をされるか知らんけれども、私は天地金乃神をその方に見せましてね、生神金光大神天地金乃神、ね、色々この、字配りが違うでしょうが。それは、字の太さやらが違うですね。天地書附は皆さんも拝んでおられますでしょう。だからね、天地書附をね、ここの庭に、私は配石して欲しいと願ったんです。ね。ですから、この石庭は、いわゆる、このまま、庭そのままが、天地書附、見る天地書附なんですね。読む天地書附ではなくて、見る天地書附なんです、いわば。
だから、ここには生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり、というその願いが、この庭いっぱいにかけられておる。そこで、なら、生神金光大神石というものがなからなければならない、いわゆる、天地金乃神、いわゆる中央の一番大きい、2~3日前、その、あれをここでは天地岩と読んでおりますよね、天地の岩をと、天地岩。その天地岩と読んでおりますその石に、注連縄を張り巡らさせて頂いて。 これはどうだろうか、見た目におかしなことはないだろうかと言うて、幾人もの人に見てもらって、おかしいことはないですよ、と。それからと言って、また庭のその体裁を悪くすることもない。といったような話でございましたがね。この、いわゆる石がここに運ばれ、ここに石が築かれる頃から、天地岩に椿の木が生え出した。一寸二寸と伸んで行って、とうとう今年はもう、二股になって、枝が一つ出たんです。
葉が一つ出、二つ出しておる内にです、どこからどういう風に養分を吸い、水分が、まあ、それこそ、まあ、水は天からもらい水でしょう、これこそ。けれどもあの、岩のその中からですね、ここで天地岩として拝ませて頂くようになってから、あの椿の木ば生え出した。不思議なことじゃある。
これはもう、新聞社にどん出すなら、もう、すぐこれは写真撮りに来てから、新聞記事になることだろう、という話が出ました。ね。そういう風に言うてまいりますとですね、本当に合楽には、不思議なことだなということが、沢山あります。ここで現われて来ることの上にでもです、または、ここでいろいろ、また向こうの方へ手洗いがございますね。
あれなんかでも、まあ、あれに彫ってある字を読ませて頂きますとです、本当にそこにご神意を感じんわけにはまいりません。言うならば、神の願いをそこに感じんわけにはまいりません。ね。これは、天地が例えば、ここの中心でありますところの私。ね。に、神様のかけられる期待というか、願いというものをです、もう、様々なことの中から、それを感じん訳には行きません。
これは、大坪聡一郎というものじゃなくて、まあ、合楽教会と言うてもいいでしょう。合楽教会にかけられる願いというものがです、その、神様がね、もう、止むに止まれぬ思いを、そのような形、そのようなお姿に現しておられるということをです、感じます。ね。
そこでね、私は、これは、んなら、合楽教会だけにかけられておるのか。大坪聡一郎だけにかけられておるのか、と。いや、決してそうではない。人間氏子の一人ひとりにかけられておるのが、神様の願いである。もちろん、その神の願いというのは、氏子信心しておかげを受けてくれよ、ということなんです。ね。
なら、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰る、そのおかげとはどういうことか、と。神の願いに、ね、応えて立つことだと、私は思います。ね。神様の願いに応えて立つこちらが、心の状態になりさえすれば、間違いなしにおかげが受けられる。絶対のものなんだ、と。人間が幸せになれるのだ、と。親神様の心を知り、親神様の思いに添うてさえ行きゃあ、人間は絶対幸せにならなければならないようになってるんだ。
それに、例えば私どもが信心はしておるけれども、ただ自分の願いだけの、願いの丈を神様に申し上げることが、信心のように思うておる。それは、人間氏子、牛馬のことにいたるまで、ね、実意をもって願えと仰るから、痛ければ痛い、痒ければ痒いで願わせて頂かなければおられんのが私どもではあるけれども、そこまでを信心と思うておる。
自分の都合の悪い、自分の困った時だけを神様に願うのが、信心のように思うておる。そういう信心から脱却して、本当に神様の心が分かり、神様の思いが、願いが分からせてもろうて、その思いに添い、願いに応えて、それを受けて立とうという勢いを神様が求め給う。ね。
それは、んなら、大坪聡一郎の上だけではない、合楽教会だけのことではない。皆の教会の上にも、または、皆の人間氏子の上に神様がかけてござるところの願いである。ただ違いは、その願いに応えて立とうとする、止むに止まれん心の相違が、おかげの相違なのだ。ね。
そこで、例えば今日の六十一節ね。自分が真の道を歩かせて頂いて、そこから生まれて来る真のおかげを頂き、それに触れていく、そのおかげをです、世の中に信心をまだ知らない人、分からない人にです、どうかして伝えて行く方法はなかろうかと、開けても暮れても思えれるほどしの信心。神の願いに応えて立つとは、そういうことだと思う。
それで、ただ自分がおかげを頂くということだけになら、どげな修行でもする。それこそ、人が十遍参るところを百遍参ってでも、一つおかげを頂こうという、まあ、意欲を大きく持つということは良い事としてです。ね。それでは、一つも神の願いに応えて立つということになって来ない。ね。
私はこの六十一節は、今日はとにかく、そこんとこを、そういう風に感じる。ね。だから、自分のおかげを受けたことを人に話をして行くのが、神様へのお礼になることだから、それが神様になるとさえも仰っておられるのだから。ね。他のことは俺は出来んから、お導きなっとんさせてもろうて、お話させてもろうて、お導きをしようと言うのとは、だいぶん違うですね。ね。根本的に違うんです。
言うならば、こげんお世話になっとるけん、いつも、ただ、それに対して、義理が済まんから、どうせにゃならんといったような風に、こう感じがちなところで、そんなもんじゃないです。ね。もう、止むに止まれぬものになって来る、それは。ね。
ですから、合楽教会の上にだけ、そんな不思議なことが、その、まあ、不思議と思わなければおられないようなことが起きるというのはです、合楽教会全体が持っておる願い。ね、それは私を中心にする願い。ほれは不思議なことですもんね。例えば、ここの教会がね、合楽という地名のところにです、ね、教会が建立されたという事だけでも、思やあ思うほど、不思議なことなんですよ、実は。
だから私が、なら、椛目時代にですね、もう、これはいつの時代から神定めであったと言やあ、それまでですけれどもね。いわば、本当に神も助かり、氏子も立ち行くところの願い。ね。それには、私どもは神様の願いに応えて立つというところに神の助かりがあるならです。ね。そこに、また神様の、私どもの上にかけられるところの願い、または、おかげがそこに現われて来る。いわゆる、あいよかけよで、神様と私どもが一緒に助かり合うて行けれる、その、ここが場であるということがです、合楽というその教会の地名からでも感じることが出けるです。ね。
私は、その、とって付けたような風に言うなら、もうそれまでですけれども。ね。私どもが、善導寺でお導きを頂いた。ね。三井教会が、私の教えの親様がおられる所なのである。ね。善導とは、善い導きと書いてある。善導される、あそこで善導された。だから、これは現在のバスの停留の地名だけを言うてもそうなんです。ね。そこで、本当に有り難い信心である、おかげを頂いて有り難いなあ、勿体無いなというのが、勿体島になってる。まだ、本当言うたら、今日はそのバスの停留所だけを言ってますけれども、まだ、飯田なら飯田と、ね、勿体島と飯田の中に、勿体島と善導寺の中に飯田というところもあります。飯田というようなところは、飯の田と書いてある。ね、言うならば、その、善導された、善いおかげを頂いた、ままになるおかげを頂いた。それが、有り難うして有り難うして、勿体無いという勿体島ということになって。
ね、それが、有り難い勿体無いという、言うならば、有り難い勿体無いの心の花が、椛目に咲いた。椛目とは、木偏に花と書いてある。椛目の椛は、この、樺太の樺ではなくて、木偏に花を書きますわね。ね。心に咲き続けるその喜びの花がです、常に持ち続けられた、常持である。ね。その常に持ち続けられて、合楽に納まった。その合楽というところはね、本当の合楽なのである。私がおかげを頂きゃよかちゅうなもんじゃないのである。私が助かることは、神様も助かって下さるということに繋がるのである。ね。
そこで、皆さんが助かるということはです、ね、皆さんがおかげを受けるということはです、ね、神様がおかげを下さること、助かって下さることに繋がっておるようなおかげでなからなければ駄目だ。困った時頼んでから、こげなおかげ頂いたでお終いになるような信心では、駄目だということになります。
そういうようなことでも考えるとです、もう、不思議で不思議でたまらんことばかりです。ね。なら、それは合楽だけにそういう風なあるのかと言うと、決してそうではない。言うならば、私の願い、この有り難いお道、この有り難いこの信心をです、ね、本当に何とかして人に伝えて行く手立てはなかろうか、と。
これは、私が取次者とか、まだ先生と言われる前の、例えば信心の中にそれがあった。ね。私がもう、そこに病人がござると言やあ、そこに難儀な人があると言やあ、もうそれこそ、何里の道でも歩いて、どんな夏の炎天でも、それこそ、そこにわざわざ行って、お話させて頂いた。ね。
それは、神様へのお礼になるから行ったのじゃない。もう、止むに止まれぬという思いがです、そういう形になって現われておる。神の願いに、いわば、今日の言葉で申しますと、神の願いに応えて立っておったわけなんです。それを、行動に現しておった訳なんです、止むに止まれん思いが。ね。
そこにです、やはり神の願いがはっきりとこのようにも、例えば、天地岩なら天地岩の上にも現われて来るんだと、私は思います。合楽だから、大坪聡一郎だから現われて来るとじゃない。ね。だから、皆さんの家庭の上にだってです、ね、どげん考えても不思議で不思議でたまらん、と。最近、北野の上野さん達が夫婦で一生懸命お参りになる。上野先生が弟に当たられるわけですね。奥さんは、原さんところの長女になられれる。だから、その、いつも信心の雰囲気の中というか、皆の祈りとか、姉の祈りというものが、いつも強烈に動いておるということは、もう、間違いないことなんだ。
最近、今度土地を買って、家を建てられる願いが立てられた。ね。いわば、上野自転車商会ですかね、が、まあ、もっと良い場所に、良い広い場所に、まあ、移転しようと、こう言うのです。もう、何からかにまで、おかげを受けて行かなきゃならんのである。まず、金銭のことから、その場所のことから、ね、もう、色々な意味で、おかげを受けなきゃならん。それで私が上野さんに申します。
ね、上野自転車商会がです、ね、ただ上野自転車商会がただ繁盛することの為だけの信心じゃ駄目ですよ、と。上野自転車店が、ね、発展するということは、神様が発展されることに繋がっておるようなおかげにならにゃ駄目よって。願いの焦点が、そこに変えられにゃいけんよて。ね。まあ、そういう意味のことを、いつも、まあ、夫婦にお話はするんです。とりわけ、そういう話をしました翌日でした。おかげを頂いてから、次々と話があっとりました中に、話が良い場所に場所が決まった。
ところがね、その翌日、そのある人が見えてから、もう、あなた方あそこに土地を買いなさったが、あそこに泥を捨てたいと思う。地上げせんならんところです。だから、お金はいらんけんでん、あそこに捨てさせてもらうことは出けんじゃろうかち言うちから、言うてみえた。その翌日じゃった。ほれはあ、もう願っても叶ってもないことですよね。地上げしなければならんところに、ある人がやっぱり、泥を取って退けなきゃならんとに、遠い所に捨てられん。それが側にあるもんですから、どうせそこも地上げしなさらなきゃならんから、まあ、頼みに来なさったわけです。
もう、よかどこじゃありませんです、それは、よかどこじゃありませんですね。金出してからでも地上げしなきゃならんところですから。と言うようなです、不思議な働きがはじまっておる。ね。だから、そのことだけじゃないよ、腑が良い、そのことだけで終えるなら、腑がよかったで終えるけれども、その、普通で言うなら腑がよかったと思われるようなことがです、ね、次々と頂けてくるようになるのだ。
こちらの願いというか、少し分かって来る。上野商店が、ただ繁盛することのために移転するのだ、新築するのだというのじゃない。ね。これからは、上野商店が発展するということは、そのまま天地の親神様が発展しなさるということに繋がらなければ。なら、それを細かく言うと、合楽教会に御神縁を頂くのであるから、自分の繁盛が合楽教会の繁盛と繋がっておらなければならない。
いわゆる、合楽にならなければならない。ね。そういう願いというものがです、いかに神様の心を動かす、神様のお喜びを頂くかということをです、私どもはいつの場合も感じるのです。ね。ですから、真の道によって、真の道を人に伝えて行く。そのことが神様のお礼になる、そのことが神になるとまでも仰るから、そうするのではなくてです。神様の思いが分かり、神様の願いが分かり、そして、例えば、んなら、私の20年前の、んなら、金銭に恵まれておった訳でもなからなければです、ね、いわゆる形の上に現われて来るおかげということには、まあ、程遠い私どもであったけれどもです、その教えに生かされて生きておる自分が、もう有り難うして堪えん。
こういう、例えば普通で言うなら難儀な中にあっても、このように有り難い信心をです、人に伝えたならばどういうことになるだろうか。人に伝えたら、どんなに有り難いことになるであろうかという、止むに止まれん願いが、神の願いに応えて立つ、神の願いを受けて立つというです、そういう信心が生まれたところからです、ね。いわば、まるきり私一人の上に不思議なことが起こって来るようなおかげが現われてきた。
これは、合楽教会の独壇場と言わなきゃおれないほどしにです、実際はそうじゃないけれども、合楽の教会の上に、不思議な、いわば事が起こってきた。ということになるのですよ。ね。ですからね、信心して、お願いをして、おかげを頂くということは、そういう内容を持ったおかげでなからなきゃならない。それにはね、どうでも、一つ神の願いに応えて立たせてもらうというその事がです、人に伝えて行くことにもなるだろう、真の道を踏むことにもなるだろう。真の道を、いわば、踏み行じさせることにもなるだろう。
これが、神の御礼にならんわけはない、神の喜びにならんわけはない。それが、また照り返って来るように、私の上に不思議な不思議なおかげにもなって来る訳なんであります。ね。そこから、いわゆる、あいよかけよで立ち行くという神の願い。ね。合楽が立つということは、皆さんが立つこと。皆さんが立つことは、合楽が立つことと、そこに絶対の、絶対不離とでも申しましょうかね、離れることの出けない信心というものが、親子の縁の形を持って結ばれてくる。ね。
そういうおかげ、そういう信心を一つ、本気で皆さん身に付けて行こうという願いが、願い変えられなければです、本当のお道の信心の、いわば有り難さということにはなって来ない。また、有り難いおかげが、そこに現われて来ると。ね。本当、信心のない人から見たら、不思議なごとあるというようなおかげが現われて来ることには、なった来ないのですよね。どうぞ。